この記事では次のことがわかります!
- ユングの生い立ちや性格がわかる!
- ユングの結婚相手や愛人のことがわかる!
ユングは分析心理学(ユング心理学)を作った人
カール・グスタフ・ユングはスイスの精神科医・心理学者で、分析心理学(ユング心理学)を作った人です。1875年7月26日にスイスの北部ケスヴィルで生まれ、バーゼルで育ちました。第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、冷戦中の1961年に85歳で亡くなっています。
分析心理学(ユング心理学)とは?
分析心理学(ユング心理学)は、ユングが独自にまとめた心理学の体系です。
元型、性格の内向・外向、コンプレックス、集合的無意識、共時性、個性化などを体系づけました。
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それ以外にも、ユングは独創的な元型理論から、神話・おとぎ話、錬金術、宗教などの研究まで幅広く研究しました。
ユングの生い立ち
ユングは信仰の厚いプロテスタントの牧師の家に育った
ユングは信仰の厚い一家に育ちました。ユングの父パウルは精神病院の礼拝堂牧師を兼ねたプロテスタントの牧師でした。父親はどこか頼りなく、牧師でありながら神を心から信じてはいないように見えました。父方の祖父カールは、バーゼル大学医学部教授と学長も務めた地元の名士で、ユングの生まれる10年ほど前に亡くなっていました。ユングはこの祖父に憧れていたようです。
ユングには牧師のおじが8人もいて、母方の祖父も牧師でした。ユングには、まわりの人が偽善的で空っぽに見えていました。そのため、知識を得ようと父親の書斎で調べものをするのが好きだったようです。
ユングの母方の親戚は霊感の強い家系だった
ユングの母方の祖父であるザムエル・プライスヴェルクは神学者でしたが、神秘主義的な信仰の傾向がありました。幽霊や幻影を見たり、霊界と交信する能力があったのです。
ユングの祖父は2度結婚しましたが、亡くなった最初の妻と毎週コミュニケーションをとっていたそうです。ユングは、スイスのプロテスタントの信仰と、異教の霊性という二つの宗教的な影響を受けて育ちました。その影響か、ユングは自分の中に2つの人格があったようです。
ユングは引きこもっていた時期もある内向的な人
ユングの2つの人格とは?
ユングは風変りで、沈みがちな子どもでした。9歳になるまできょうだいもいなかったため、ひとりで想像の世界で遊ぶような子どもでした。
ユングは幼少期のころから人格「ナンバー1」と人格「ナンバー2」を持ち、自分の中で互いに違うものが存在するという経験をしていました。
ユングの人格「ナンバー1」
あたりまえの日常を過ごす人格。子どもっぽくハメをはずすこともあるが、学問での成功を目指して、科学を勉強し、名声に恵まれる生活を送る野心に燃えていた。
ユングの人格「ナンバー2」
自分の中にいる、永遠的な存在だがやっかいな他人。キリスト教への疑心を感じている。占い師のような神秘的な方法で歴史とつながっていた。
また、自分の母親にも2つの人格があり、2つ目の人格に、異教の要素を持つグレート・マザー的なものを感じていました。ユングの母親は、のちのちの元型や、グレート・マザーなどの考えに影響を与えた人物だと言えます。
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ユングは、2つの人格で迷い、大学では精神医学を学ぶ
思春期のユングは、人格「ナンバー1」と、人格「ナンバー2」の世界で悩んでいました。人格「ナンバー1」は自然科学に興味を持っており、人格「ナンバー2」は人文科学(歴史)に興味を持っていたのです。しかし、人格「ナンバー1」が光であり、人格「ナンバー2」が影であるという象徴的な夢を見て、自然科学の道に進むことになります。
その後、バーゼル大学で医学を学ぶうちに、精神医学こそが自分の求めていた自然科学と人文科学が統合された学問であることを知り、その道へと進んでいきます。
1900年バーゼル大学を卒業したユングは、チューリッヒ大学でベルクヘルツリ精神病院の助手となり、統合失調症の研究からキャリアをスタートさせました。
大人になってから39歳で引きこもりを経験している
ユングは1913年ごろに、師として仰いでいたフロイトと決別し、幻覚や幻聴をともなう精神的危機を経験しています。39歳のユングは行き詰まり、友人や同僚も離れていきました。大学の地位も投げ捨て、1914年から1919年まで、現実世界から引きこもって、自分自身の無意識の探求を続けました。
ユングは女性にモテた?ユングの結婚相手と愛人とは?
ユングは妻となるエンマに一目ぼれした
ユングの妻となるエンマ・ラウシェンバッハは、1882年生まれのドイツ系スイス人でした。1955年11月27日に亡くなっています。
ユングは21歳のとき、14歳のエンマに出会い、話しかける前にやがて妻となる人だとわかったそうです。それから7年後の1903年2月14日にふたりは結婚しました。エンマは旧家の出身で、裕福な実業家の娘でした。そのため、ユングはお金の心配をしないで望みどおりの研究をする自由を手に入れたのです。
ユングとエンマの間には5人の子どもが生まれました。しかし、ユングの人格「ナンバー2」はアニマ的な女性を求め、エンマはユングの女性関係に悩むことになります。
ユングの愛人ザビーネ・シュピールラインとアントニア・ヴォルフとは?
ザビーネ・シュピールライン
1904年に統合失調症の患者としてブルクヘルツリ精神病院に入院し、ユングと出会いました。病気の治癒を経て医学部に入り、ユングが指導的立場になると、次第に愛人関係になっていきます。しかし、シュピールラインの親に知られ、破局することになります。
アントニア・ヴォルフ
アントニア・ヴォルフは、1910年にユングから分析を受け始め、1911年頃からユングの愛人となったと言われています。アントニアが亡くなる1953年まで、その関係は続いたそうです。アントニアは、堅実な妻エンマにはない、「アニマ」的な魅力を持った女性だったそうです。
アントニアはユングの仕事を手伝い、教育を受け、分析家として開業するまでになりました。
ユングは生涯で、科学の世界とスピリチュアルな世界の両方を大切にした
ユングが生きた19世紀から20世紀の西欧は、反キリスト主義から、科学的な合理主義が発達した時代でした。ユングは、科学を大切にしながらも、「神話をつくるような人間の想像力」を大切にする人でした。
ユングは錬金術や共時性(シンクロニシティ)など、スピリチュアルな世界も大切にし、生涯研究をつづけました。
まとめ
カール・グスタフ・ユングはスイスの精神科医・心理学者で、分析心理学(ユング心理学)を作った人です。
分析心理学(ユング心理学)は、ユングが独自にまとめた心理学の体系です。元型、性格の内向・外向、コンプレックス、集合的無意識、共時性、個性化などを体系づけました。
ユングには2つの人格があり、その人格の葛藤からユング心理学は生まれたと言えるでしょう。光と影、善と悪というような対立する2つの世界をつなげようとしたのがユングの人生だったのではないでしょうか。